FC2ブログ

スポンサーサイト

 --------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告

NOTE 89) 2014福地夏祭り

 2014-10-22
今年も石巻は福地のお祭りに参加してきました。

今年で3回目になります。
行きはお盆の渋滞を避けて、常磐道で。
いわきからは一般道を原発で立ち入り禁止の地区を迂回するように走ってきました。
その辺りの話はまた後で書きます。
ブログの更新が2ヶ月も伸びてしまったのはその辺りあるのですが...。

さて13日の夕方、石巻のいつもの拠点へ到着。

今回のバンドは超即興バンド!
いつも一緒だった息子は学校の都合でここは不参加。
そのかわり昔のバンド仲間のボーカルのK氏が参加。
さらに地元の大学生がベースで協力してくれることに。
これは強力なメンバーが揃った。
ボーカルのK氏はその昔CDデビューを果たしているし、
大学生は現役プレーヤー
(自分が一番ヘタやないかい...。)

しかしです。そんな面子なので時間が合わず、事前に音合わせできない...。
ほぼ本番一発勝負

それでもなんとかオープニングアクトとエンディングアクト務めさせていただきました。
ギターがボロボロだったのは言うまでもありませんが...。
2014福地夏祭りバンド

実際の映像↓
イマジン

お祭りの様子はというと、やはり年々賑やかになっている気がします。
いままでどうしてもお祭りという気分になれないということで、いままで参加されていなかった方も
今年は参加されていました。
ボランティアのメンバーも毎年少しづつ変わりながらも相変わらず30名近く集まってきます。
今年はじめて来た大学生もいます。

福地夏祭り 花火

大川小学校の訴訟の問題や、地域の再生のあり方など、
まだまだいろいろ課題を抱えているのも事実ですが、
年に一度のお夏祭りで、地元の皆さんの元気な笑顔を見ると
またこちらも頑張らねばという気持ちになります。

さて来年も元気に参加できるようにこの一年間がんばらねば。


カテゴリ :東日本大震災

NOTE 88) 縁というもの エピローグ

 2014-08-04
お茶っこを終え、駆け足の二日間ももう、家路に着くだけです。

帰りがけMさんが雄勝に新しくできたcafeに寄りたいと言っていたので、
ちょっと寄り道することにしました。
場所は仮設合同庁舎の隣です。
IMG_1009.jpg
↑仮設の合同庁舎 「津波襲来の地」の碑

石巻雄勝町は、リアス式の入り組んだ海岸線に小さな浜がいくつも点在する町です。
山が浜の近くまで迫っているので、農地も狭く、住む人の多くは漁業に従事していました。
に使われる雄勝石の産地でもあり、東京駅の屋根に葺かれている瓦はこの雄勝石が使われています。

しかし震災後、既に高齢化が進んでいたことと、
効率性を重視する宮城県の復興政策の影響で、小さな港の整備が後回しになってしまったことなどで、
生業を廃業して、この町を去る人も多いのが現状です。
4000人いた住民も今では2000人を切る状況になっているそうです。

そんな町の真ん中に新しくcafeができました。
お店の名前は「」。

雄勝町ではすべての公共施設が、津波によって流されてしまいました。
津波によって浸水した地域は危険地域に指定され、
住民の皆さんは遠く離れた仮設住宅での生活を余儀なくされています。
そんな地区で少しでもみんなが集まり、新しいコミュニティが生まれるようにと、
多くの方の寄付によって建設されたのが「O-LINK HOUSE」というコミュニティ施設です。
「縁」はこの施設に併設されたcafeです。

外観はログハウス調。中に入るとここが被災地であることを忘れてしまう位落ち着いた雰囲気です。
そしてメニューに書かれた店名の由来...。


人と人とのつながり合い

世界各国 日本全国のみなさまから たくさんの温かいご支援をいただいたこと
雄勝に関わってくださったみなさま
雄勝を気にかけてくださったみなさま
オーリンクハウスを造るために お力添えをいただいたみなさま
雄勝の移動カフェでお友達になった おんちゃん おばちゃん
人生の中でお世話になった親方 先輩
友達 仲間 親戚 家族
そして
これから出逢ってゆくみなさま
そのすべての出逢いと心の「縁」を大切にしていきたい

そんな想いを込めて「Cafe 縁-えん-」と名付けました
当店は 誰もが集える 憩いの場になるよう 努めてまいります
どうぞごゆっくり おくつろぎくださいませ


ここで働いているのはそのつながりを持った町外からやってきた若者です。
「O-LINK HOUSE」でのイベントの企画もしています。

町に来て、町が好きになって、その町に住む。
そんな流れで被災地に若者が増えていけばいいんだけど...。
是非多くの若者が被災地を訪れ、壊れてしまった街を見てため息をつくのではなく、
何もなくなってしまった街の未来を、自由な発想で描いてもらいたいです。

さて、cafeを後にして帰途に。
福地の拠点の借り物を返して、すぐ帰るつもりでした。
夏祭りの件は、聞けなかったけど、また戻ってからメールか何かで確認できればいいか、と思っていたのですが...

拠点で荷物を降ろしていると、車が走ってきて、声をかけてくる人が。
丁度、公民館で田んぼの草刈りを終えた地区の人が集まっていたところに、
その前を通った僕らの車を見かけ、追いかけてきたそうです。

今、夏祭りのこと話てるから、顔出せと。

なんという偶然。こちらもその夏祭りのこと聞きたかったんです。

しかし、公民館に着くと、皆さん上機嫌
どうも早朝から草刈りして、お昼前から飲んでいるとのこと。
もう4時半回ってますから、かれこれ5時間
そんな席でも誘っていただける僕たちは、幸せ者です。
(車の運転があるんで、自分は飲めないけど...)
そんな状況ですから、話はあっちへふらふら、こっちへふらふら。
それでも今年もお祭りが例年通り行われること。
花火も打ち上げられること。
いくつか子供達の出し物も考えていることなど、お話しをお伺いすることができました。
これで今年も迷いなく、機材揃えて参加できます。

でも、いつもの場所で行われる夏祭りも今年が最後になりそうです。
北上川の堤防嵩上げ工事にともなって、公民館の前を流れる水路も改修されることになり、
それにともなって、今まであった公民館前の水路脇のスペースが削られることに...。
そんな訳で今年の夏祭り、しっかりサポートしていきたいと思います。
IMG_0988.jpg
↑お祭り会場の公民館 手前の広場が道路に

さて時間は5時過ぎ、そろそろ出発しないと、その日のうちに家にたどりつけなくなってしまいます。
夏祭りまで泊まってけという、何とも嬉しいお誘いの言葉を振り切り、家路につきました。


少しづつ変わっていく被災地。
今回の東北行でも、いろいろな変化を感じてきました。
その小さな変化のひとつひとつが、
被災地の人達の笑顔につながる変化であることを信じ、祈ってます。



おわり
カテゴリ :東日本大震災

NOTE 87) 縁というもの partⅣ

 2014-07-28
2日目の日曜日。波板地域交流センターを出てから、「お茶っこ」に参加する前に歌津へ行ってきた。
歌津へはボランティアで一度。そして2年前に一度。

そのニュースはボランティア仲間からのメッセージだった。

「Yさんが交通事故で亡くなった」と。

ちょうど翌日久しぶりにボランティア仲間で集まる予定だった。
前日までFBを確認していた。週末東京に戻って走るウルトラマラソンのゼッケンを彼らしく描き替えをしていた。

大型トラックと正面衝突。彼が対向車線にはみ出したということだった。
あまりにも突然で、みんな訳がわからない。それが事故死というものか。


彼とは特に親しかった訳ではない。何回か顔を合わせ、何度か話をした程度だ。
でも何か不思議な縁を感じていた。

彼と最初に会ったのは、2011年6月のボランティア説明会の時。

その日、僕はゴールデンウィークに参加したボランティアの体験談を、参加者を前に発表していた。
P1040893.jpg
↑RQ市民災害救援センターHPより
その会に彼は出席していた。決して若くはない。ぼくと同じ年だった。
彼はボランティアの各拠点の生活環境に興味を持っていた。
ぼくは歌津が一番厳しいと答えた。歌津は志津川の陰に隠れて、復旧が遅れていた。
そんな中で開設された歌津のボランティアセンターは、ボランティアの完全自活が要求されていたからだ。
歌津の拠点には、その時点でまだ、電気も水道も通じてはいなかった。
そんな拠点に彼は行きたいと言っていた。
彼の眼は輝いていた。そこでの活動を考える表情は楽しそうですらあった。
変わった奴もいるなぁと思った。

しばらくすると歌津のブログにスパイダーと名乗るボランティアが活動報告を書いていた。
クモの研究者だからスパイダーと名乗ったらしい。
その時はまだ、報告会に来ていた男とスパーダーは結びついていなかった。

緊急支援的活動も徐々に減ってきた2011年9月。
いつも行っていた河北の拠点では活動の軸足を長期支援活動に移していた。
そんな訳で僕は歌津に行くことに決めた。
発砲スチロールの廃棄の件で、一度行ったこともあるし、まだ体力系の仕事も残っていた。
そこでYさんに再び会うことになる。

「あれ、どこかで会ったことある気がする」
彼は山伏の修行僧の恰好をしていた。みずからてんぐと称していた。
彼は歌津の歴史に感銘し、その文化を残し、伝えることに指名を感じていた。
修行僧のその恰好も、田束山の山伏信仰を子供達に伝える為だ。

歌津の祭りは4年に一度。それは震災の年に行われるはずだった。
しかし、神輿も、道具も、衣装もすべて津波に流されてしまっていた。
4年に一度のお祭り。今年できなければ、4年後。それは子供達にとっては途方もなく長い時間だ。
文化は途切れてならない。そんな想いで彼は子供祭りの実行に力を入れた。
お神輿も、道具も、衣装もすべて子供達と手作りし、8月の子供キャンプでお祭りを実行した。
子供達は手作りのおもちゃみたいなお神輿ながら、見事に祭りを引き継ぐことができた。
l_b04de9e0ae739dadabe24724c291f60a38587d16-464x348.jpg
↑RQ市民災害救援センターHPより

僕は予定通り、ガレキ撤去系の仕事をやることにした。
彼は翌日行われる何回目かの子供キャンプの準備をしていた。
マッチ一本で火をつける、竹でコップ、箸を作る。
震災の時にも役に立ったサバイバル技術を子供達に伝えていくという。
「被災地に子供の遊び場を」といった活動はよくあった。
しかし、彼の考える遊び場の発想は他のそれとは、根本的に違っていた。
学校をさぼって遊ぶことを、ここ歌津では「ヤマ学校へ行く」といっていた。
子供達は山を分け入り遊ぶことで自ずと自然の中で遊ぶ=生活する知恵がついていく。
彼はこの「ヤマ学校」を現代に甦らせようとしていた。

その夜一緒に来たボランティアのKさんと一緒にYさんと少しの時間飲んだ。
彼は一般のボランティアと同じ高台で寝泊まりしていなかった。
「さえずりの谷」と名付けた沢筋の休耕田が彼の生活の場だった。
CIMG1174.jpg

そこは子供達の遊び場でもあった。
彼は本当にこの歌津とここに住む人の事が好きなようだった。
「てんぐのヤマ学校」をつくる。当面の目標になっていた。
Kさんはドラム缶の風呂に入ったが、僕は遠慮した。

僕のボランティアの最終日。それは子供キャンプの最終日でもあった。
この日僕は歌津から仙台駅まで、彼と彼の家族を送っていった。
この時、奥さんと娘さんが手伝いにきていたのだ。
おだやかな感じの奥さんと、がんばりやの娘さん。
CIMG1173.jpg

彼は家族を残して、歌津に住民票を移すことを決めていた。
奥さんは心配が多いのだろう。心配している様子がはた目にもわかる。
Yさんは聞かないふり。
夫婦仲が悪いとは思えない。

家族を置いてまで、歌津でやろうとしていることに、何の意味があるのだろう。
その強い意志はどこからくるのだろう。
家族を中心に据えて考えてる僕には想像できない。
彼は一旦帰京し、またすぐに歌津にもどるという。
仙台駅で彼らを下した後、僕は埼玉へと車を走らせた。家族の待つ我が家だ。

翌年の7月、再び歌津へ行った。
団体としての拠点はもうない。彼1人残って「てんぐのヤマ学校」を続けていた。
今回は僕もボランティアではない。仲間のKさんと様子を見に来たというの正直なところだ。
遅れて到着した僕らをところてんで迎えてくれた。
地元の人に「雪が降った時にはじめてほんとの気持ちがわかる」と言われ、
彼はその年の冬を谷のテントで過ごした。
東北の冬をテントで越すことにそう言った地元の人達ですら心配していたようだ。
彼はなぜ頑なに思ったことを実践するのだろう。
確かにそうやって自然の中に身を置くことで、わかることも多いだろう。感じることも多いだろう。
それを実践することで、人に伝えられることもあるだろう。
彼は冒険家?探検家?

仮設テントの商店街の一角に彼の事務所兼展示スペースがあった。
仮設商店街バナー

シロウオのザワ漁の話を楽しそうに話してくれた。
去年に比べて、少し人当りが柔らかくなった気がした。
生活は相変わらずさえずりの谷のようだ。
子供達が遊ぶベンチの修繕と台風で飛ばされたトタンの撤去を手伝った。
最近までは、1人ボランティアで長期常駐してくれた娘がいたらしいのだが、
その娘も先日ここを離れたようだ。
少し寂しそうだった。

帰りに仮設商店街に用事があるというので、車に乗せていった。
ここのウニ丼がうまいと教えられ、遅い昼食を摂った。
彼とはここで別れた。
また来る約束をして。
しかし、歌津で彼と会う日はついに来なかった。

次に会ったのは、東京。1ヵ月後だった。
ボランティア団体主催のワークショップ。
彼はそこで参加者を前に、この1年間の歌津での生活と、今後の展開を報告した。
壮大な想いを時には恥ずかしそうに、時には確信を持って話していた。
ワークショップ終了後の懇親会でも少しだけ話しをした。
何もなくなってしまった歌津の子供達に歌津に生きる未来を与えたい。
今度は田束山に向かう古道を復活させることを考えているようだ。
津波で主要道路が寸断された時に利用できるようにと。
AureG9BCMAA2loh.jpg

彼と会ったのは結局それが最後になってしまった。
その後の彼の活躍はもっぱらFBとボランティア仲間の噂話だった。
彼の活動は時にメディアでも取り上げられるようになっていた。
歌津で新種のクモも発見した。

さえずりの谷が、高台移転の建設工事に伴い、使えなくなると古民家を生活の拠点とするようになった。
活動の幅を広げる為、この歳で免許を取った。
乗っていた車にはトトロの「猫バス」がペイントされていた。
子供達に大人気だ。
歌津の運動会にはスパイダーマンの恰好で参加していた。
地元にも受け入れられ、彼の活動はその想いに向かって、迷うことなく進んでいたように思う。
5/31までは...。

彼のお通夜に参加したのは6/5。
正式にはお通夜でない。葬儀はキリスト教式で行われた。
教会で行われる偲ぶ会に参列したのは初めてだった。

アメリカで生まれ、すぐに洗礼を受けていたこと。
京都大学を卒業していたこと。
ジュリーのファンであったこと。
キリスト教の奉仕活動をしていたこと。
それは在日朝鮮人の子供達の遊びと学びの場を提供するボランティアだったこと。
その後教会のリーダーとして香港に移り、日本だけでなくアジア地域を含めた活動をしていたこと。
その後いろいろな確執があって、教会を離れたこと。
児童館の館長である奥さんの代わりに主夫をしていたこと。

僕の知らない過去があった。
彼の損得のない物事に対する取り組み、論理的な思考能力と実行力は
そんな過去の経歴があったからなのかもしれない。
人を使うのはヘタだったけど。

2014年7月6日
僕は歌津へ来た。彼のいない歌津に。
今行って何の意味があるのか...わからなかった。
ただ行かなきゃならないと言う思いだけがあった。

国道45号線を北上する。
事故現場はわからない。
さえずりの谷は工事が入っていて、彼が活動していた時の面影はない。
IMG_1001.jpg

彼が活動の拠点として入居していた仮設テント商店街。
今は役割を終え、資材置場として使われているようだった。
IMG_0999.jpg

彼のにおいはどこにも感じられない。
今の自分が知っている場所はここだけしかないけど、このまま帰るわけにはいかないと感じていた。
復興商店街に行った。彼と歌津で分かれた場所。ここで彼が地元の人と話をしていたのを思い出した。
IMG_1002.jpg

地元の人らしい家族連れに声をかけた。
子供だったらスパイダーを知っているかもしれない。
「スパーダー?亡くなっちゃたよ」
子供はスパイダーの事をちゃんとしっていた。
お母さんがスパイダーの事なら、観光協会の人へ聞いてと、協会の人を紹介してくれた。
観光協会の人から彼の住んでいた場所を伺った。
イベントの準備で忙しそうだったけど、丁寧に地図を描いてくれた。

地図に沿って車を走らせた。道は山の中へ入って行く。
道が行き違いできない位細くなったところに、彼の住処はあった。
IMG_1004.jpg

くずれそうな物置を修理した住処。
屋根裏でねずみがうるさくて、青大将を放した住処。

観光協会の人からはご家族によって、少し整理されたと聞いていたが、そこには彼の証があふれていた。
てんぐの表札、蜘滝神社の額束、愛用のソーラークッカー、部屋の中にはスパイダーマンの衣装
そして、「猫バス」のバンパー...。
IMG_1003.jpg

バンパーだけ見れば、人が死んでしまうような事故だったとは思えない。

蜘滝神社の額束の前で手を合わせた。
スパイダー...。
IMG_1005.jpg

不思議だよ、スパイダー。
君はなぜ数あるボランティア団体の中で、あの報告会に参加したんだろう。
そしてなぜ今、僕はここへ来たのだろう。

合掌


つづく


カテゴリ :東日本大震災

NOTE 86) 縁というもの partⅢ

 2014-07-22
今回の東北行の目的は「お茶っこ」のお手伝いです。
「お茶っこ」という言葉は東北にボランティアにきて、初めて知った言葉です。
東北では、お茶を飲みながら世間話をすることを「お茶っこ」というそうです。
ただ関東の感覚でいうと、お茶会なのだろうが、もてなす人がいますよね。
その場でお茶を出したり、お菓子を用意したり、後片付けをしたりする主人みたいな役回りの人が。
しかし、この「お茶っこ」はそういうものではないらしい。
誰かの家に集まるとすると(あるいは集会所)卓にでかい急須をどかんと置いて、袋菓子、漬物なども皿にどんと置く
あとは主人も客も関係なく、菓子、漬物をつまみながら、茶葉が山盛りの出がらしになるまで、おしゃべりするそうです。
それが「お茶っこ」らしい。
ちなみに政治や経済等の硬い話はまったくなく、超身近なローカルな話しかしないそうです。
これも身近なコミュニティを壊さない為の配慮なのかもしれないですね。

被災地ではそんな「お茶っこ」が、ボランティア主催でいろいろなところで開催されています。
被災によって避難所や仮設住宅での生活を余儀なくされている方々のつながりを、
少しでも持ち続けられるようサポートしていこうということで、各地でいろいろな団体が活動しています。

今回、僕が参加させていただいたのは「日本シェアリングネーチャー協会」の被災地支援活動、
全国銘菓お茶っこ広場」です。

ochakkologo[1]

「日本シェアリングネーチャー協会」は旧「日本ネーチャーゲーム協会」で、
人と自然の共生を目指して、ネーチャーゲームをはじめとした自然体験プログラムなどの活動を実施している団体です。
この団体のサポートを「リオグランデ」(僕がいつもお世話になってる団体)が行っていて、
石巻市雄勝町の仮設住宅のお茶っこを定期的に実施しています。

実はこの「お茶っこ」という活動に参加するのは、初めてです。
もともと何の取り柄もない自分ですから、震災当時、出来ることといったら、
緊急支援的なことのお手伝いで、ガレキ撤去くらいだと思っていました。
長期に及ぶ、心のケア的な活動は不向きかなと。

ただ夏祭りのお手伝いとか、波板海岸への海水浴とか毎年出かけて行き、地区の人とお話しをしていくうちに
何も役に立つとか、ケアするとか関係なく、そこに行く、顔を見せるだけでも十分なんだということに気が付きました。
忘れない、つながりを続けていくことで、そこの皆さんの心の支えになることがあるんだと。

タップダンサーのMさんは3年間毎年4~6回仮設の「お茶っこ」でタップを踏んでます。
最初の一年間はこの「お茶っこ」でも、グチや嘆きが多かったそうです。少しもしゃべってくれない人もいたそうです。
去年位から笑顔の絶えない集まりになり、今では当時の話もでないくらい明るい会になっていました。

今回、僕はギターを持って参加しました。
ビューティフルサンデー」という曲が、仮設の方達のストレッチ体操かなにかのテーマ曲になっていて、
知っているから、それをやろうということで、特に他には何も用意せずに来てしまいました。
何かあれば2~3曲ビートルズ演奏すればいいかと、かなり軽い感じで参加してしまいました。

当日はあいにくの雨模様
一旦は野外でバーベキューの準備もはじめたのですが、急遽集会所へ移動です。

10537164_1444350992512510_2180054831331106316_n[1]
↑一旦は野外で準備

しばし、全国から送られたお菓子をつまみながら、おしゃべり。
集会所に集まった皆さんもおこわや、漬物を持参してきてくれて、ボランティアもそれをつまみながら「お茶っこ」です。
それと仮設の方がホヤを持ってきてくださって、それをひとつひとつ解体して、ふるまってくれました。
これが新鮮で、まったくくさみがなく、本当においしかったです。

IMG_1008.jpg
↑集会所の前でホヤの解体ショー。ボランティアも挑戦中。

しかし...初めてということもあって、あまり話に入っていけない自分。皆さんもいい年のボランティアにあまり興味がなく...。

しばし、おしゃべりした後、Mさんの呼びかけで、いよいよエンターテーメントタイム開始。
カラオケ大会(笑)です。
いきなり「きよしのズンドコ節」をタップしながら歌い上げるMさん。
集まった人達を一気に引き込みます。
すぐに歌上手の方が続きます。しかし...みんなさん歌うのはド演歌
いや~ほとんど知らない...。
このまま手拍子、拍手で僕の役目も終わりかなと思っていたのですが。

あれ~、ギターの人、ギター弾かないの?」と声が...。
どうやら今日ギター弾きが来ることが事前に伝わっていたようです。
いきなり冷や汗
屋内になったらカラオケになって、ギターはなしと聞いていたので、何の準備もしてません。
ここにきて出来ませんとは言えないので、慌てて車ににギターを取りに行きました。

ですが...。この状況何をすればいいのでしょう。
やらないと思っていたので、ビューティフルサンデーすらリハなしです。
一度も音合わせしてません
取り敢えずMさんはスマホの歌詞で歌うことにして、僕がギターを弾きます。
弾きだしてから、どこで歌に入って、どこでサビに展開して、どうして終わらせるか、
とにかく目くばせでつないでいきました。

10545008_763089353741821_2031805978_n.jpg
↑スマホ片手にタップを踏みながら歌うMさんといい気になってギターかき鳴らしてる自分(汗)

いや~ヒヤヒヤながらもなんとか無事終了。コード進行が簡単な曲で助かりました。
ところがまたリクエストが...。
いくらなんでもこのニアな雰囲気の中、しかも演歌の流れの中ビートルズをやる勇気はもてず...。
Mさんとスマホで曲検索しながら、「遠くで汽笛をききながら」など数曲フォーク調の曲を演奏させてもらいました。


その後もカラオケが続き、時間が3時に近づいた頃、「お茶っこ」もそろそろ閉会です。
最後にギターで何かやっての声が。うれしいです。
でも、申し訳ないのですが、この場の最後にふさわしい曲がもうありません
という訳で、もう一度「ビューティフルサンデー」。但し、英語バージョンです(笑)。

こうして、どうにか僕のはじめての「お茶っこ」は終了しました。

でも音楽の力っていいですね。こうやってヘタながら何曲かやらせてもらった後、
いろいろお話していただけるよになりました。
そして自分から発信してこそ、コミュニケーションはとれるんだということを、改めて感じました。
初めてでどこまで力になれたのか、わかりませんが...。

10457958_1444351102512499_1320808330922557770_n[1]
↑この日デビューしたフォークデュオ M&K(笑)

この「お茶っこ」けっして住民の方すべてが参加する訳ではありません。だいたいメンバーは決まってしまうそうです。
今回ははじめてで何の事前PRもできませんでしたが、次回、例えばちょっと機材を用意して、
フォーク居酒屋ならぬ「フォークお茶っこ開催」とかできたら、新しい世代の参加者とか来ませんかねぇ。
それよりも、次回参加させていただくときには、演歌練習しておきます!

後片付けを終え、車で仮設を離れる際に、「お茶っこ」に参加された仮設の皆さんが沿道に並んで
手を振りながらお見送りをしてくれます。こちらも手を振り返します。
それは「また来いよ」「また来るよ」の合図なのでしょう。

つづく
カテゴリ :東日本大震災

NOTE 85) 縁というもの partⅡ

 2014-07-16
大川中学校の跡地に「野菜工場」ができたと聞いて行ってみました。

大川中学校は大川小学校より少し上流にあった中学校です。
震災の際は北上川の堤防を越えて押し寄せた津波に1階部分がガレキとドロで埋まりました。

st-school21.jpg
st-school26.jpg
st-school27.jpg
↑HP 大川中学校「津波」そのとき より

3.11は丁度卒業式当日で、午前中に式を終え、被災時刻には生徒達はすでに帰宅していました。
その為、大川小学校と違って、学校で被災した生徒はいませんでした。
(帰宅した自宅で被災した生徒達は何名かいました)
僕がお世話になったボランティア団体が
この大川中学校のガレキ撤去、ドロ出しの作業に入ったのは4月の半ばでした。

IMG_1607-2.jpg
↑HP 大川中学校「津波」そのとき より

当時は中学校が再開されること信じて、横断幕に「よみがえれ 大川中学校」と題し、
ボランティアのみんなで、寄せ書きをしていました。

volunt05.jpg
↑HP 大川中学校「津波」そのとき より

その大川中学校の閉校が決まったのは、震災から2年後。
同じ学区の大川小学校の児童の多くが被災した為、短期的に生徒数が激減すること、
また長期的にみても学区内に津波危険地区に指定されたところが多く、
今後も生徒数が増えないと判断された為、市内の別の中学校との統合が決まりました。
閉校式が行われたのは、2013年3月9日です。
その後校舎は夏までに解体されました。
今までいろいろ地区の人のお話をお伺いしてみると、
大川中学校の統合にしても、解体にしても
あまり地区の人達に説明がないまま進んでいたようです。
閉校後の校舎の市民利用についても、いろいろ要望はあったようですが、
おそらく国の復興予算で取り壊す期限が迫っていたから、
急いで閉校、解体したということのようです。

そんな大川中学校の跡地はどうなるのかと思っていたところ、思わぬニュースが。
なんと全天候型水耕栽培施設「野菜工場」ができたと言うではありませんか。

無題
↑河北新報より

実はこの野菜工場の話は東北復興関連のセミナーでたびたび取り上げられていて、
よく耳にしていたプロジェクトの話だったのです。
津波による塩害の影響もなく、単一品種が一年中連作できる効率的な栽培法として、
注目されていました。しかも無農薬で安心安全な野菜の栽培が可能なのです。
しかし今までの農業政策で、単一の農家で行うには、初期設備費用などの課題が多く、
あまり進んでいませんでした。そのあたり、本来企業がやっていくものなのですが、
現行の農業政策って、農家を守る為、企業が参入しづらくなっています。
それが被災地に関していえば、地域再生の為、
国も地方も行政が積極的に企業誘致を行っているため、
この「野菜工場」が農業再生の目玉のひとつとして復興関連政策の中で取り上げられていたのです。
野菜作っている自分としては、すごく興味があったので、知っている場所で実現しているとは、
びっくりです。

IMG_0995.jpg

この大川中学校の跡地にできた野菜工場は、
東松島にある「東部環境」さんという会社が運営しています。
「東部環境」さん自身今回の震災で海岸近くにあった会社が被災しましたが、
早期の事業復帰を目指して社員一丸となって、復旧にあたったそうです。
そして以前から野菜工場とメガソーラー事業を計画していた社長さんが、
高校時代の同級生が大川出身だった縁で、大川中学校の跡地での事業化を決めたそうです。

この「野菜工場」を訪れたのは、土曜日の夕刻でした。
とりあえず外観の写真でもとっておこうと思い、工場前で撮影していたら、
中で作業していた人とばっちり目が合ってしまいました。

IMG_0992.jpg

当然怪訝な顔をしています。何の連絡も入れてませんので、当り前ですが...。
これはちゃんとお話ししないと不審者と思われると思い、ハウスの入口の方へ歩いていくと、
先方の方でもこちらに近づいてきます。

そこで大川中学校のドロ出しの作業を手伝ったボランティア団体に所属していたことを伝えて、
跡地に「野菜工場」ができたと聞いたので見に来ました。と伝えたところ、
親切に中まで案内して頂きました。

IMG_0993.jpg

6月の上旬に稼働したのですが、その日は早くも一回目の収穫を終え、出荷した後とのこと。
種まきから1ヶ月で出荷って、すごくないですか?
作っているのは葉物野菜のルッコラ、からし菜、レタス等。ベビーリーフとして出荷します。
商品名は「良葉東部」で「イーハトーブ」と読ませるそうです。
「良質な葉物野菜を育てたい」という願いと社名を組み合わせて、
読み方は宮沢賢治の作品に登場する理想郷から引用したということです。
ハウスの中でお話を聞きながら、このベビーリーフを何枚か食べさせてもらったのですが、
形が良く、香り、味もしっかりしていておいしいベビーリーフでした。

この野菜工場の責任者の方が、社長さんの同級生のようでした。
野菜工場の建設は社長の強い想いがあったからとおっしゃってました。
またお子さんが大川小学校に通われており、被災したこと。
その息子さんは僕が毎年行っている福地の夏祭りでお世話になっているSさんの娘さんと同級生であることなど、
当時のことなどもお話ししてくださいました。

来年には野菜工場の横にメガソーラーシステムが出来上がるそうです。
この地区の新しい施設として、地域の復興が進んでいくのではないでしょうか。

ひととおり見学させていただき、お別れするする際に
「また寄って下さい」とお言葉をいただきました。
メガソーラーシステムが完成したら、また見学させていただきます。

つづく
カテゴリ :東日本大震災
←前ページへ  最新の記事へこのページの先頭へ↑  次ページへ→
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。