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NOTE 87) 縁というもの partⅣ

 2014-07-28
2日目の日曜日。波板地域交流センターを出てから、「お茶っこ」に参加する前に歌津へ行ってきた。
歌津へはボランティアで一度。そして2年前に一度。

そのニュースはボランティア仲間からのメッセージだった。

「Yさんが交通事故で亡くなった」と。

ちょうど翌日久しぶりにボランティア仲間で集まる予定だった。
前日までFBを確認していた。週末東京に戻って走るウルトラマラソンのゼッケンを彼らしく描き替えをしていた。

大型トラックと正面衝突。彼が対向車線にはみ出したということだった。
あまりにも突然で、みんな訳がわからない。それが事故死というものか。


彼とは特に親しかった訳ではない。何回か顔を合わせ、何度か話をした程度だ。
でも何か不思議な縁を感じていた。

彼と最初に会ったのは、2011年6月のボランティア説明会の時。

その日、僕はゴールデンウィークに参加したボランティアの体験談を、参加者を前に発表していた。
P1040893.jpg
↑RQ市民災害救援センターHPより
その会に彼は出席していた。決して若くはない。ぼくと同じ年だった。
彼はボランティアの各拠点の生活環境に興味を持っていた。
ぼくは歌津が一番厳しいと答えた。歌津は志津川の陰に隠れて、復旧が遅れていた。
そんな中で開設された歌津のボランティアセンターは、ボランティアの完全自活が要求されていたからだ。
歌津の拠点には、その時点でまだ、電気も水道も通じてはいなかった。
そんな拠点に彼は行きたいと言っていた。
彼の眼は輝いていた。そこでの活動を考える表情は楽しそうですらあった。
変わった奴もいるなぁと思った。

しばらくすると歌津のブログにスパイダーと名乗るボランティアが活動報告を書いていた。
クモの研究者だからスパイダーと名乗ったらしい。
その時はまだ、報告会に来ていた男とスパーダーは結びついていなかった。

緊急支援的活動も徐々に減ってきた2011年9月。
いつも行っていた河北の拠点では活動の軸足を長期支援活動に移していた。
そんな訳で僕は歌津に行くことに決めた。
発砲スチロールの廃棄の件で、一度行ったこともあるし、まだ体力系の仕事も残っていた。
そこでYさんに再び会うことになる。

「あれ、どこかで会ったことある気がする」
彼は山伏の修行僧の恰好をしていた。みずからてんぐと称していた。
彼は歌津の歴史に感銘し、その文化を残し、伝えることに指名を感じていた。
修行僧のその恰好も、田束山の山伏信仰を子供達に伝える為だ。

歌津の祭りは4年に一度。それは震災の年に行われるはずだった。
しかし、神輿も、道具も、衣装もすべて津波に流されてしまっていた。
4年に一度のお祭り。今年できなければ、4年後。それは子供達にとっては途方もなく長い時間だ。
文化は途切れてならない。そんな想いで彼は子供祭りの実行に力を入れた。
お神輿も、道具も、衣装もすべて子供達と手作りし、8月の子供キャンプでお祭りを実行した。
子供達は手作りのおもちゃみたいなお神輿ながら、見事に祭りを引き継ぐことができた。
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↑RQ市民災害救援センターHPより

僕は予定通り、ガレキ撤去系の仕事をやることにした。
彼は翌日行われる何回目かの子供キャンプの準備をしていた。
マッチ一本で火をつける、竹でコップ、箸を作る。
震災の時にも役に立ったサバイバル技術を子供達に伝えていくという。
「被災地に子供の遊び場を」といった活動はよくあった。
しかし、彼の考える遊び場の発想は他のそれとは、根本的に違っていた。
学校をさぼって遊ぶことを、ここ歌津では「ヤマ学校へ行く」といっていた。
子供達は山を分け入り遊ぶことで自ずと自然の中で遊ぶ=生活する知恵がついていく。
彼はこの「ヤマ学校」を現代に甦らせようとしていた。

その夜一緒に来たボランティアのKさんと一緒にYさんと少しの時間飲んだ。
彼は一般のボランティアと同じ高台で寝泊まりしていなかった。
「さえずりの谷」と名付けた沢筋の休耕田が彼の生活の場だった。
CIMG1174.jpg

そこは子供達の遊び場でもあった。
彼は本当にこの歌津とここに住む人の事が好きなようだった。
「てんぐのヤマ学校」をつくる。当面の目標になっていた。
Kさんはドラム缶の風呂に入ったが、僕は遠慮した。

僕のボランティアの最終日。それは子供キャンプの最終日でもあった。
この日僕は歌津から仙台駅まで、彼と彼の家族を送っていった。
この時、奥さんと娘さんが手伝いにきていたのだ。
おだやかな感じの奥さんと、がんばりやの娘さん。
CIMG1173.jpg

彼は家族を残して、歌津に住民票を移すことを決めていた。
奥さんは心配が多いのだろう。心配している様子がはた目にもわかる。
Yさんは聞かないふり。
夫婦仲が悪いとは思えない。

家族を置いてまで、歌津でやろうとしていることに、何の意味があるのだろう。
その強い意志はどこからくるのだろう。
家族を中心に据えて考えてる僕には想像できない。
彼は一旦帰京し、またすぐに歌津にもどるという。
仙台駅で彼らを下した後、僕は埼玉へと車を走らせた。家族の待つ我が家だ。

翌年の7月、再び歌津へ行った。
団体としての拠点はもうない。彼1人残って「てんぐのヤマ学校」を続けていた。
今回は僕もボランティアではない。仲間のKさんと様子を見に来たというの正直なところだ。
遅れて到着した僕らをところてんで迎えてくれた。
地元の人に「雪が降った時にはじめてほんとの気持ちがわかる」と言われ、
彼はその年の冬を谷のテントで過ごした。
東北の冬をテントで越すことにそう言った地元の人達ですら心配していたようだ。
彼はなぜ頑なに思ったことを実践するのだろう。
確かにそうやって自然の中に身を置くことで、わかることも多いだろう。感じることも多いだろう。
それを実践することで、人に伝えられることもあるだろう。
彼は冒険家?探検家?

仮設テントの商店街の一角に彼の事務所兼展示スペースがあった。
仮設商店街バナー

シロウオのザワ漁の話を楽しそうに話してくれた。
去年に比べて、少し人当りが柔らかくなった気がした。
生活は相変わらずさえずりの谷のようだ。
子供達が遊ぶベンチの修繕と台風で飛ばされたトタンの撤去を手伝った。
最近までは、1人ボランティアで長期常駐してくれた娘がいたらしいのだが、
その娘も先日ここを離れたようだ。
少し寂しそうだった。

帰りに仮設商店街に用事があるというので、車に乗せていった。
ここのウニ丼がうまいと教えられ、遅い昼食を摂った。
彼とはここで別れた。
また来る約束をして。
しかし、歌津で彼と会う日はついに来なかった。

次に会ったのは、東京。1ヵ月後だった。
ボランティア団体主催のワークショップ。
彼はそこで参加者を前に、この1年間の歌津での生活と、今後の展開を報告した。
壮大な想いを時には恥ずかしそうに、時には確信を持って話していた。
ワークショップ終了後の懇親会でも少しだけ話しをした。
何もなくなってしまった歌津の子供達に歌津に生きる未来を与えたい。
今度は田束山に向かう古道を復活させることを考えているようだ。
津波で主要道路が寸断された時に利用できるようにと。
AureG9BCMAA2loh.jpg

彼と会ったのは結局それが最後になってしまった。
その後の彼の活躍はもっぱらFBとボランティア仲間の噂話だった。
彼の活動は時にメディアでも取り上げられるようになっていた。
歌津で新種のクモも発見した。

さえずりの谷が、高台移転の建設工事に伴い、使えなくなると古民家を生活の拠点とするようになった。
活動の幅を広げる為、この歳で免許を取った。
乗っていた車にはトトロの「猫バス」がペイントされていた。
子供達に大人気だ。
歌津の運動会にはスパイダーマンの恰好で参加していた。
地元にも受け入れられ、彼の活動はその想いに向かって、迷うことなく進んでいたように思う。
5/31までは...。

彼のお通夜に参加したのは6/5。
正式にはお通夜でない。葬儀はキリスト教式で行われた。
教会で行われる偲ぶ会に参列したのは初めてだった。

アメリカで生まれ、すぐに洗礼を受けていたこと。
京都大学を卒業していたこと。
ジュリーのファンであったこと。
キリスト教の奉仕活動をしていたこと。
それは在日朝鮮人の子供達の遊びと学びの場を提供するボランティアだったこと。
その後教会のリーダーとして香港に移り、日本だけでなくアジア地域を含めた活動をしていたこと。
その後いろいろな確執があって、教会を離れたこと。
児童館の館長である奥さんの代わりに主夫をしていたこと。

僕の知らない過去があった。
彼の損得のない物事に対する取り組み、論理的な思考能力と実行力は
そんな過去の経歴があったからなのかもしれない。
人を使うのはヘタだったけど。

2014年7月6日
僕は歌津へ来た。彼のいない歌津に。
今行って何の意味があるのか...わからなかった。
ただ行かなきゃならないと言う思いだけがあった。

国道45号線を北上する。
事故現場はわからない。
さえずりの谷は工事が入っていて、彼が活動していた時の面影はない。
IMG_1001.jpg

彼が活動の拠点として入居していた仮設テント商店街。
今は役割を終え、資材置場として使われているようだった。
IMG_0999.jpg

彼のにおいはどこにも感じられない。
今の自分が知っている場所はここだけしかないけど、このまま帰るわけにはいかないと感じていた。
復興商店街に行った。彼と歌津で分かれた場所。ここで彼が地元の人と話をしていたのを思い出した。
IMG_1002.jpg

地元の人らしい家族連れに声をかけた。
子供だったらスパイダーを知っているかもしれない。
「スパーダー?亡くなっちゃたよ」
子供はスパイダーの事をちゃんとしっていた。
お母さんがスパイダーの事なら、観光協会の人へ聞いてと、協会の人を紹介してくれた。
観光協会の人から彼の住んでいた場所を伺った。
イベントの準備で忙しそうだったけど、丁寧に地図を描いてくれた。

地図に沿って車を走らせた。道は山の中へ入って行く。
道が行き違いできない位細くなったところに、彼の住処はあった。
IMG_1004.jpg

くずれそうな物置を修理した住処。
屋根裏でねずみがうるさくて、青大将を放した住処。

観光協会の人からはご家族によって、少し整理されたと聞いていたが、そこには彼の証があふれていた。
てんぐの表札、蜘滝神社の額束、愛用のソーラークッカー、部屋の中にはスパイダーマンの衣装
そして、「猫バス」のバンパー...。
IMG_1003.jpg

バンパーだけ見れば、人が死んでしまうような事故だったとは思えない。

蜘滝神社の額束の前で手を合わせた。
スパイダー...。
IMG_1005.jpg

不思議だよ、スパイダー。
君はなぜ数あるボランティア団体の中で、あの報告会に参加したんだろう。
そしてなぜ今、僕はここへ来たのだろう。

合掌


つづく


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カテゴリ :東日本大震災
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